432hzは愛と調和の周波数、440hz(432hz以外を基調とした音楽)は悪魔を勝利に導く周波数であるとシュタイナーは説きました。
432hzのヒーリング効果については発信している筆者自身が確信を持っております。
国際標準ピッチとして440hzが制定されましたが、やはりスピリチュアルな視点でみると、悪魔的な勢力が440hzを広めるために仕組んだことであると考えられますし筆者は個人的にそういう視点で音響を捉えています。
では、資本主義社会、経済が果たして悪であるか?
というと、それを論じるための要素は何一つ見出すことはできません。
しかし、いつの時代も芸術を一定の割合で「壊す」という現象は起きています。
芸術と資本主義は相性がいいように見えて実は相性が最悪なんですね。
本日は資本主義経済の視点から見た440hz制定について少し考えてみましょう。
国際標準ピッチ以前はバラバラ
音楽の長い歴史において基調とする周波数はバラバラでした。
音楽の歴史に関しては筆者が運営する音楽家育成塾の記事もチェックしてください。
Curanz Soundsのnoteの記事でも掲載していますが、過去のおおまかな周波数の推移としてはこのようになっています。
・フランス・ヴェルサイユ宮殿の基準ピッチは392Hzとされている。
・1813年にはイギリスで管弦楽においてA=412Hzが採用。
・1859年にはA=452Hzに引き上げ。
・1839年にドイツのシュツットガルトでA=440Hzを採用。
・1858年にフランス政府はオペラの場合はA=448Hzを採用。
・1859年にはパリにヨーロッパ中から音叉が集められることになり、当時の音楽家たちの会議にてA=435Hzが採用される。
・1887年にイタリア政府がA=435Hzを採用。
・1939年に440HzがThe New Philharmonic Pitchとして国際標準としてロンドンの会議で決定。
バラバラだと何が困るのか?
地域や時代によってバラバラだった周波数。
一体何が困るというのでしょうか?
資本主義経済の視点で見た時になぜ国際標準ピッチを定める必要があったのでしょうか?
そうです、楽器の製造です。
フォードがハイランドパーク工場で組み立てラインを初めたのが1914年。
大量生産大量消費社会のはじまりでした。
画像:出典不明
資本主義経済社会が世界規模で展開していった20世紀の時代において楽器の製造をいかに効率よく低コストで大量生産を行うかというのは最初に課題に上がるのは当然のこと。
産業革命以前のように職人が一台一台手作りをしていては儲かりませんし、楽器を演奏する層が広がりません。
実際に国際標準ピッチが制定される以前に製造されたピアノを440hzやそれ以上のピッチで調律するのはかなり困難なんです。
これらの基準値を決めることで全世界の工場で統一された工場ラインを作ることが可能です。
〇〇国向けに432hz、〇〇国向けに443hz、などになれば大量生産の工場ラインなどは作れません。
資本主義視点で見た時にこうした理由で標準ピッチというものが定まったと考えることもできます。
ただし、それでもなぜ世界的にもかなり稀な基調である440hzなのか?
という疑問は残りますが、ここは今回は割愛しておきましょう。
資本主義が壊したモノ
資本主義経済を否定するつもりは一切ありませんが、資本主義と芸術、文化というのは非常に相性が悪いことは事実です。
資本主義経済のおかげで壊されてきた文化や芸術は多岐に渡ります。
例えば先述の資本主義経済的視点でみた国際標準ピッチの制定もその一つでしょう。
工場生産ラインの確保を目的としたこの標準ピッチの制定で音楽の地域性というものがなくなりました。
旅をしない音楽家は不幸
オーストリアのウィーンで生まれた天才と称されたモーツァルトはかつて「旅をしない音楽家は不幸である」という名言を残しています。
この言葉の意味は、音楽の地域性にあります。
その昔各地域で周波数がバラバラだった音楽はその土地の土着の民族文化を多く含んでいました。
我が国日本でも430hzで調整された雅楽。
なぜ430hzで調整されるのか?
様々な理由が考えられますが、湿気の多い日本という地域性が関連していことは容易に想像することができます。
龍笛の師匠がかつてこんなことをいっていました。
「笛(龍笛)は雨の日とか湿気の多い日の方が鳴りがよかったりする」。
音楽家なら周知の事実ではありますが、西洋楽器のバイオリンは日本ではその真価を発揮することはできません。
日本の湿気に対応できていないからです。
こうした地域性のため、基調となる周波数はその地域に合わせてその時代の音楽家たちが制定していたものと想像できます。
だからこそ、旅が面白くて仕方なかったのです。
一度別の国に行く、別の民族の音楽を聴くと基調も違えば音律だって違い、使う楽器だって違う、何もかも違う、それらを楽しむことが音楽家にとってどれだけ幸福な体験だったでしょうか。
だからこそ20世紀以前の音楽家は旅をして、旅先で得た体験を元にそれらの民族をリスペクトするべく楽曲の制作を行っていたんです。
それらのミックス性がまた新たな感性の音楽を生み出す。
この無限の幸福のループこそ文化の真髄であり芸術を楽しむ要でした。
現在では日本も西洋楽器が定着しつつあり、同じ周波数440hzで、みな同じ楽器を使い同じ音律の同じような楽曲を楽しむだけです。
芸術は壊れていてもいい
共産主義も資本主義もアプローチは違えど、文化や芸術を破壊していきます。
ではバクーニンの唱える無政府主義が芸術にとってベストな選択肢か?と言われると筆者はベストな選択肢であるとは思えません。
いえ、「今の段階では」を付け加えた方がいいのかもしれません。
芸術は諸行無常でいい、壊されて、壊れて、その再生に対して輝きを生み出す。
それは輪廻という概念でみたときの生命と同じような輝きなのかもしれません。
永遠の命を手に入れた物質世界に囚われてしまった人間は果たして幸せでしょうか?
永遠の美しさ、永遠の自由が保証された、、、いえ、囚われてしまった芸術は果たして輝き続けることができるでしょうか?
そこに破壊と再生があるからこそ輝く芸術があるのかもしれません。
440hz vs 432hz
440hzは悪魔の支配する世界に変えるのか?
432hzは愛と調和の世界に導くのか?
本日はこれらのスピリチュアル的な視点を排除して考察してみました。
筆者の芸術家としての結論は、どちらでもいい。
ただし、選択の自由が必要であると述べておきます。
現代、432hzを選択する自由はなくなってしまいました。
現代のピアノで432hzで調律するということはそのテンションを維持することが非常に困難なことも含め、世界中にリリースできるアグリゲーターも432hzと楽曲のタイトルやアルバムに記述すること、ジャケットに記載することも禁止しています。
432hzでの楽曲をリリースさせてもらえなかったジョンレノン。
そしてマイケルジャクソンも周波数に対して深く考察していたのではいか?と筆者は想像しています。
本来制作過程において自由な環境を選択できるはずの人たちが封じ込められてきた。
そして現在もリリース規定に関して432hzを公表することは禁止されているというこの選択の不自由こそ悪魔的であると言えるのかもしれません。
Curanz Soundsは432hzを選択したい全ての人に432hzを選択できる自由を提供します。